本当なら「新作完成」とか「ご注文品紹介」とか
そういうタイトルになるような記事なのですが
今回はちょっと違う、だからカテゴリーも「いろいろ思うこと」で。
写真の2点はTwitterでお知り合いになったminakoさんにお買い上げいただいた
「ちょっとそこまでA4バック」と「斜め掛けポシェット」
あまり細かく書くのもなくなんでザクッと書くと
minakoさんは3年とちょっと前のお通夜の夜
私にTwitterのDMを下さいました。
今にして思うと、会ったこともない、どんな人間かもわからない私に
あのDMを送るのには勇気が必要だっただろうと思います。
私はあの夜、その言葉に救いを求め、その言葉を抱きしめていました。
まだ肉体のあった息子の横で何度も何度もそれを読みました。
そのあと何か月も何度も何度もそれを読み返しました。
そしてそれから少し時間が流れて…ある日。
そのDMをくれた方にお礼を言いたくなりDMを探してみたけれど
なんとしたことかそのDMが見つからない。
なんだか自分の意識がこの世のものじゃない感じでいた期間に
何度かTwitterからも居たり消えたり逃げたり、いろいろだったので
その間に何人もの友達を積極的になくしたり去られてしまったり…
メッセージもそんなことでなくなってしまったのかもしれません。
あろうことか私はそれを送ってくれたのがどなただったかも失念していました。
だいぶ時間がたってからTwitterで
「もしあの時DMをくれた方がまだ私のそばにいてくれる方だったら
本当にありがとうございました」ということをつぶやいたら
「私だー!」と言って下さったのがminakoさんでした。
そんな関係のminakoさんです。
そのminakoさんが新作できたよツイートを見てお買い物して下さる
そんな日が来るなんて…とそのご縁を不思議に思いつつ感謝しかありません。
先にあの世に行ってしまう人はいろんなものを持っていくなぁと
そんなふうに思うことの方が多いですが
最近、いろんなものを残していってくれるなぁということも多いです。
今日、これを書いておこうと思ったのは
もし身近に何かつらい思いを抱えている人がいて
その人にかける言葉を探している人が居たら
minakoさんが教えてくれたこの吉田松陰の最後の言葉が
役立ったりするかもしれないと思ったから。
そして自分の生を考えた時「もう夏ではないな」とは思うけど
同じ秋ならまだ晩秋ではないと思いたい…そんなことを今は考えています。
minakoさん、改めてありがとうございました。
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今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは
春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び
酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。
つまりその年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、
これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、
実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えればやはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、
三十歳には自ずから三十歳の四季が、
五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、
いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、
それを受け継いでやろうという人がいるなら、
それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、
収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
(古川薫著「吉田松陰 留魂録」現代語訳より抜粋)